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備中神楽の簡単なあらすじ。神楽面の紹介。神楽動画の紹介。神楽公演の紹介。ふるさとの風景紹介。おく山のお便り。


わしの村の裏山に伽藍山がある。
先人から、わが村を守護し続けている愛すべき山脈。

伽藍山(がらんやま)海抜292m


 猪、野うさぎ、きつね、たぬき、カラス、雀、トンビ、山鳩、カッコウたちの楽園である。人間たちもこの山と共に歴史を刻んで今に至る。
山の山頂をふもとから見る度に、人は、思う。
「この山の頂に立てば何か変わるかもしれない」


伽藍山山系の登山道を複数開発しました。
歴史ある古道をゆっくり散策してみましょう。

 

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伽藍山の歴史

時代背景
0710/04/13(和銅3/03/10) 元明天皇が、都を平城京に移す。
 0735/05/22(天平7/04/26)  吉備真備らが留学先の唐の文物を献上する。
 0737/**/**(天平9/**/**)  伽藍山山頂に極楽寺が建立される。本堂及び12坊が行基菩薩により開基されたといわれる。
 【行基菩薩】
 河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)の生まれ。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。741年(天平13年)3月に聖武天皇が行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果大きく745年(天平17年)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。大仏造営中の天平21年2月2日、菅原寺で81歳で入滅。朝廷より菩薩の称号が下され、行基菩薩と言われる。
 【伽藍山 極楽寺】の歴史
○古義真言宗
○本堂(方三間)仁王門(二間、一間) 観音堂 大塔 本専(阿弥陀如来) 多聞天 持国天 千手観音
○十二坊が存在した。
○歴史
 737年(天平9年)伽藍山山頂に極楽寺が建立。本堂及び12坊が行基菩薩により開基されたといわれる。後鳥羽院のころに大規模な山崩れがあったとも伝えられています。里山田に東極楽寺5坊、江良に西極楽寺7坊(西方坊・大光坊・金剛坊・辻の坊・新蔵坊・塔善坊・西明坊)を移転下山した。時期については、鎌倉時代に伽藍山を出城とした毛利氏の家来 渡辺佐衛門が再興したとも、1638年(寛永15年)江戸時代に西方院が再興されたとの由来がある。本堂は、争論の末、御座のみ東極楽寺に、上部を西極楽寺が持ち帰った。1745年(延亨2年)江戸時代に西明坊は西明院(宇内)、明治初期に金剛坊は四王寺(東川面)、西方坊は西方院(寺谷:右の写真)、大光坊は大光院(寺谷)、東極楽寺は、極楽寺(里山田)となり現在に至る。西方院には、伽藍山極楽寺より明治初期に移設した毘沙門天、千手観音、仁王像が残る。
   
西方院
 
毘沙門天
 
千手観音
 
仁王像

仁王像 
 
 十二天 
 伽藍山頂上付近には『十二天』の石刻文字が発見されている。中世から近世にかけての山岳仏教がうかがえます。

 十二天(じゅうにてん)は、仏教の護法神である「天」の諸尊12種を組み合わせたものである。密教においては四天王とともに重視されている。
仏教における「天」あるいは天部像とは、仏教流布以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、「護法神」となったものである。日本では平安初期の9世紀から作例がある。遺品は彫像よりも圧倒的に画像が多く、仏教の重要な修法や儀式の行われる道場の守護神として、掛軸あるいは屏風に描かれたものが用いられた。石刻文字として残存するのは珍しい。
 
東方 帝釈天
(インドラ)

東南 火天
(アグニ)

南方 閻魔天
(ヤマ)

南西 羅刹天
(ラクシャサ)

西方 水天
(ヴァルナ)

西北 風天
(ヴァーユ)

北方 毘沙門天
(ヴァイシュラヴァナまたはクベーラ)

北東 伊舎那天
(イーシャーナ)

天  梵天
(ブラフマー)

地  地天
(プリティヴィー)

日  日天
 (スーリヤ)

月  月天
 (チャンドラ)
 
 
 
 

伽藍山 山城

鎌倉時代
 1205年 元久2年  関東の武将 庄太郎家長が猿掛城築城。

 穂田の庄(船穂町)、草壁の庄(横谷・中・里山田)の地頭となり、1町歩(10,000㎡)の陣屋を設け、献納を管理した。 
 
猿掛城
 1533年 天文2年  猿掛城城主 庄為資(ためすけ)は、松山城に移る。庄実近(さねちか)を猿掛城城代として置き、守護させる。
 1553年 天文22年  猿掛合戦:毛利元春の援助を受けた三村元親(もとちか)軍と庄為資軍が横谷・東三成で大合戦となった。その後、毛利元春の調停により、講和する。
 1554年 天文23年  三村元祐(もとすけ)が庄為資の養子となり猿掛城主として入城する。
 1555年 弘治元年  庄軍(三村軍)による奇襲により小田村神戸山(こうどさん)城(城主:小田氏)を一夜にして落城。 
 1565年 永禄8年  5代小田政清は、小早川隆景と共に小田村神戸山城を奪取。 
 
神戸山城
 1568年 永禄11年  宇喜多氏が一時、猿掛城を落とすが、その後、毛利元清が奪取する。この年、三村元親が松山城主となり、備中に覇を唱えた。
 1575年 天正3年  三村氏の織田氏への寝返りを聞き、毛利氏が松山城を陥落させ、三村元親は自刃した(備中兵乱)。その後、毛利氏が一番の家臣・宍戸隆家に付近八万石と共に鬼身城(総社市山田)を与える。三村氏の滅亡によって備前・備中の二ヶ国は、完全に毛利氏の幕下に入り、備中を平定した毛利氏は、今後に備えて新たに武将の配置を行った。
   猿掛城主:毛利元清(元就4男)
  備中国小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられる。
   神戸山城主:小田民部少輔高清
   伽藍山城主:宍戸備前(宍戸隆家の舎弟)、渡辺佐衛門(毛利の家来) 
 
伽藍山城
 1582年 天正10年  羽柴秀吉の高松水攻めの際、猿掛城は、毛利輝元本陣となった。
 1583年 天正11年  毛利元清は、茶臼山の中山城に移り、重臣の宍戸隆家を猿掛城の城代とした。
 1600年 慶長5年  毛利輝元が関ヶ原にて敗退。中山城周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城する。
 
 ★伽藍山城は、中世の戦乱時代に猿掛城主 毛利氏の出城(砦)として築城された。遠見の為に番屋などが作られた。北に2段、南に3段の土塁(どるい)跡がみられる。
 ★伽藍山は、海抜292mであり、南に阿部山を背負い、北、東、西を見渡せるなど立地条件に恵まれている。奈良時代に施行された『条理の制』(耕地整理)では、基準となるポイントとされた。現在も三角点の一つとして設定されている。

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